当事者から、「発達障害の確定診断が欲しい」という言葉を聞きます。
私は、どうして彼がそんなに発達障害になりたいのか、不思議です。
またある親は、子どもに発達障害の診断が出て、安心したと言います。
そして、「いろいろな不適応の原因が性格にあるのでなく、発達障害のためであった。よかった」と安心されています。
当事者も、ほっとしたと言います。
発達障害の当事者というのは傾向として、対人関係が苦手で他者と仲よくできず、また、不器用で仕事が遅いところがあります。
(これは、私に当てはまることです。)
それで、いつも情けないと感じて、違う自分になりたいと思ったりします。
もっと器用に生まれたかったとか、才色兼備・頭脳明晰に生まれたかったとか、そんなことを考えてしまいます。
また、とても嫌な出来事があった時には、この世に生まれてこなければよかったとか、もう死にたいと考えます。
まわりの者からバカにされたり、軽く見られるのが情けなくて、そんな自分が嫌いなのです。
さて、そんな思いに苦しんでいる当事者の救いになるのは、医者から発達障害であるという診断が出ることです。
それにより、「自分の所為ではなかった。うまくゆかなかったのは、自分の性格が悪いのでなく、発達障害が原因だったんだ」と束の間の安心をします。
ですが、このような状況になる本当の問題は、多様な能力を認めず、均一的な価値観を重視する社会にあります。
差別的な社会のことです。
この差別が原因で、発達障害の確定診断が欲しいとか、診断されてよかったとか、そのような気持ちにさせている面があると思います。
良い悪いを別にして、診断を望む心理には現実逃避の意味合いがあるように感じます。
そうなれば、「発達障害とは何なのか」ということです。
私が、これについて思っているのが、悪いのは社会の方だということです。
「多種多様な人々が、公平に自分の特長を生かせて活躍できる」
そのような社会を作らなけらばいけませんね。
それが実現できれば、診断を受ける人が減ることでしょう。
私は、これを言いたいですし、これを願っています。