子どもにとっては、親の愛情がとても大切です。
子どもは親から愛して欲しいのに、出来の悪い子どもは親からほめてもらえず、寂しい思いをしながら育ちます。
この根本の問題は、親の条件付きの愛情にあります。
「これができたら、愛してあげる」と、親がやって欲しいことをする時だけ、ほめてもらえるのです。
そしたら、発達障害と言われるような子どもは、ほめてもらえることがなく、根性が歪んでいきます。
「自分は愛してもらえてない」と感じるからです。
本来の親子の愛情に、条件などは関係がないはずです。
ひと昔前までは、「出来の悪い子どもほど可愛い」と言ったものです。
しかし現代は、子どもに少し行動上の問題があると、幼稚園や学校が「このままではいけない」と問題視します。
そして、親も子どもを何とかしなければならないと考え、児童相談所や病院へ連れて行ったりします。
さて、子どもは「小さな大人」でありません。
子どもは自由に行動し、勝手なことをするものです。
多動の問題にしても、子どもは心臓の機能がまだ発達しておらず、体全体を動かすことで体内の血液を循環させ、心臓の予備的働きをさせています。
つまり、生存・生理的な活動であるわけです。
ですから、小さい子どもが多動なのは、ごく自然な姿であるのです。
多動の現象を、このように自然な見方をしていると、子どもが暴れていてもそんなに気になりません。
しかし、子どもを「小さな大人」の観点で見ていると、問題のある子どもとなり、困った子どもになってしまいます。
(子どもは、小さな大人でありません。)
そして親は、子どもに静かにしているように言い聞かせますが、言うことを聞きません。
そんなところで、親にとって「可愛くない子ども」となってしまうのです。
さて、可哀そうなのは子どもです。
子どもらしく生きることができないのですから、悲しいですね。
おまけに、問題のある子どもだと烙印を押されて、自分は悪い子なのだと思ってしまいます。
親に愛されるような静かにできる自分になりたいと思うのですが、子どもには難しいのです。
私は、世の中がひと昔前の「出来の悪い子どもほど可愛い」の考え方に戻って欲しいと思っています。
問題行動や異常にばかり焦点を当てずに、「無条件の愛情」を大切にして欲しいのです。
発達障害や精神障害の方が苦しんでいるのは、自立や社会適応のことよりも、自分が愛されていない存在であるところです。
極端な話、当事者は「できないあなたは認めない」「愛するに値しない」という重圧に苦しんでいるのです。
親から愛される存在になりたいと思いながらも、それができないことが辛いのです。
どんな薬よりも、親の愛情が良薬になります。
「出来の悪い子どもほど可愛い」と思って、たくさん愛してください。