私は子どもの頃は、学校の授業の時に黒板の文字がうまく読めないで困っていました。
大人になってからも、仕事上での書類の文章がうまく読めません。
それで苦労するのですが、仕事が遅くてミスが多いです。
これでも子どもの頃から比べると、自分ではかなり進歩したと思っています。
子どもの頃の状態は、文字を知らないわけでなかったのです。
でも、文字というのは線がぐにゃぐにゃと複雑に曲がりくねっているので、それをノートに書き写すことが苦手だったわけです。
絵も描けませんでしたので、「見て書く」という作業に困難があったと思われます。
通常は、このような状態だと知的障害の疑いになるのですが、生活力があったので通常発達の子どもとして扱われていました。
現代では、このような子どもを「学習障害」(LD)というのでしょう。
でも、昔のことでしたので、「やる気のない子ども」として見られていました。
確かに「見えているのに書けない」状態というのは、常識から理解ができませんね。
「こんな奴は、どうしようもないダメな人間だ」と、断言されていました。
それを言われる当事者の子どもは、自分のどこが悪いのか、さっぱり理解ができません。
やる気がないわけでなく、さぼっていることもなく、一生懸命にやっているのです。
でも、ぼろくそに罵倒されるわけです。
では、そのような状態で育った人間というのは、どんな大人になるでしょうか。
まわりの者から、嫌われ嫌がられ、何もよいところがない、どうしようもない人間だと思われていました。
自分自身でも、「そんな自分が大嫌い」で、この世に生まれてきたことを恨み、何も希望が持てない状態です。
想像するのは難しくないでしょう。
大人になると精神症状が出てきました。
自分は何もできないだけでなく、病気になって、まともに働くこともできない人間となりました。
さて、すべての大きな問題は、「精神障害」や「発達障害」(LDなど)にあるのでなく、それを理解せずに子どもの人格を否定し、攻撃していた大人の方に原因があります。
「子どもは悪くない」のです。
私は大人になっても、未だに文章を読んだり書いたりするのを苦手としていますが、子どもの頃と比べるとずいぶん成長発達しています。
でも、他人と比べると、まだまだ仕事が遅いです。
しかし、少しずつ成長している自分を確認することで、自分を誉めて、自分自身の肯定をしています。