発達障害と聞けば、正式にそのような障害があたかも存在するかのようなニュアンスですが、そんなものはないのです。
ここを勘違いしている方が多いので、明確にしておきたいと思います。
そしたら、どうして発達障害という言葉があるのかというと、発達障害者支援法という法律があるからです。
その法律によって、発達障害という言葉が成立しています。
自閉症スペクトラム障害や学習障害などの認知障害と、注意欠損・多動性障害などの行動障害、その他の発達の遅れなどの総称が、「発達障害」と規定されています。
要するに、いろいろな要素を混ぜ合わせた寄せ鍋みたいなものが「発達障害」です。
これをスマートに言うと、子どもの発育上の問題を総称して、発達障害というわけです。
さて問題は、発達障害が「脳の障害と考えられる」という部分です。
一般に脳に障害があるのなら、死ぬまで治らない障害と考えてしまいます。
そこが怪しいところなのです。
現代医学や現代科学の粋を集めても、本当に脳の障害なのかどうかは解明されていません。
つまり、推測や仮説なのです。
それなのに、能力が平均以下の能力の子どもを発達障害と名前を付けるのは、問題が大き過ぎると考えます。
子どもというのは、落ち着きがなく注意散漫なものです。
大人のような社会性は持たず、自己中心的であるのが自然の姿です。
能力も千差万別で、頭の回転の速い子も居れば遅い子もいます。
よく喋る子も居れば、無口な子もいます。
いろいろな子どもが居て、それでよいはずです。
発達障害というのは、つまり単に他の子よりも発育が遅れているだけなのでしょう。
普通の子どもですね。
どうして大騒ぎするのか、そこが理解不能です。
さて、発達障害という言葉で、救われた子どもが確かにいます。
出来の悪い子どもたちです。
私も、この部類にピッタリ入ります。
「お前は努力が足りない」「根性がない」「甘えている」「怠けものだ」「最低の人間」と、言われてきた子どもたちです。
発達障害という言葉が出てきたおかげで、「怠け者ではなかったんだ」となりました。
つまり、本人の資質というか、生まれつき持っている能力の問題だったとなりました。
その子たちは、ある意味で助かりました。
自分自身を責める必要がなくなったからです。
そこは、よかったと思います。
話を戻しますが、たくさんの子どもがいれば、できる子も、できない子も存在するわけです。
これは、自然です。
問題は、できない子ども達を、発達障害として捉えてよいのかということです。
百歩譲って、捉えるだけならまだしも、精神科で投薬をすることを勧めるなどは、ヒットラー並の虐待だと感じます。
常識で考えて、子どもの能力が医学的な投薬などで改善されるはずがありませんね。
薬で勉強ができるようになって東大に入れたら、えらいことです。
信頼しての行動だと思いますが、医者は教育や発達のことなどに素人です。
ですから、そこを理解しておかなければなりませんね。
そこで大事になるのは、親の無条件の愛情です。
「できる」とか「できない」はあまり関係なく、ただ子どもが可愛いと思う親心です。
それがあれば、子どもが成長発達により能力を高め、将来に社会適応が出るようになると思われます。
親は、そう信じて育ててやってください。