母 :「雨が降ってきたようだから、太郎ちゃん、洗濯物を見てきてくれるかな。」
太郎:「うん、わかった。」
しばらくして
太郎:「見てきたあ~。」 (チャンチャン)
母 :(言葉を無くして苦笑い)
発達症は、言葉を文字通りの意味に捉えてしまうところがあります。
太郎ちゃんは、お母さんに洗濯物を見てきてと言われたから、その通り見てきたのですが、どうも頼まれたことが違うようです。
どうして、このようなことが起きるのかというと、発達症は場面によって言葉がストーリー(台本のようなもの)になっているのを知らないところに原因があります。
たとえば、「風呂」の言葉です。
風呂といえば通常は「入浴」のことを指します。
服を脱いで、かかり湯をしてからお湯につかり、その後にシャンプーをしたり石鹸で体を洗ってきれいにします。
風呂場から出て洗濯をしたきれいな下着を着て、パジャマを着て、すっきりとした気分になる一連の流れのことを「風呂」と言います。
しかし、発達症は「風呂」と言えば、行動でなく、視覚的な「浴槽」をイメージしてしまうわけです。
この意味のある台本のような言葉を、「スクリプト」と言います。
葬式などもスクリプトで、式に参列をするとにこにこと笑っていてはダメです。
悲しそうな顔をして、ゴマのようなものを火にくべて、手を合わせて拝むみたいなことをします。
このようなことは、誰でも知っている動作で、これがスクリプト(台本)です。
人々は、このスクリプトを使って生活をしています。
学校なども、校舎のことでなく、勉強したり友達と仲よく遊んだりすることを意味しますね。
さて、発達症が「場の空気を読めない」原因は、このスクリプトの理解ができないことが大きいです。
周りの者の解釈と、発達症の者の解釈の内容が、ずれてしまうわけです。
発達症の者にすれば、「自分は間違っていない。」ということですが、その言葉には社会的な要素が入っているのが分からず、自分だけがのけ者にされていると感じてしまうのです。
このスクリプトは、社会的経験によってだんだん分かってくるのです。
でも、発達症は社会的な場に出ることを避けるところがあり、なかなか理解しにくいのです。
また、引きこもりのような状態であると、ますますスクリプトが理解できない状態になってしまいます。
さて、「洗濯物を見てきて」の意味は、「雨が降っていたら、洗濯物を取り込んで欲しい」というものですね。
でも、その意味が理解できないので、「みてきた」の言葉になるのです。
ですから、家庭でこのようなことがある時、丁寧に「物干しを見に行って、もし雨が降っていたら、洗濯物を取り込んでちょうだい。」と言わなければなりません。
このような経験を積み重ねていくと「スクリプト」が分かるようになり、丁寧に言わなくても、「洗濯物を見てきて」の言葉で、母の望み通りに洗濯物を取り込んでくれるようになります。
スクリプトの理解には、経験させていくことが大事なのです。
言葉には、いろいろな意味があることが自然に理解できるように、家庭でも支援をしてやってくださいね。